カンダハール(2)
〈http://d.hatena.ne.jp/murai_hiroshi/20050618/〉からの続き。
1.アフガンの真実かプロパガンダか?
アフガニスタンからカナダに亡命した女性ジャーナリストのナファスNafas(ニルファー・パズィラNiloufar Pazira)が、皆既日食の日に自殺するという手紙をカンダハールに残された妹から受け取り、彼女に生きる希望を与えるため、危険を冒してアフガニスタンに潜入する。その旅の途中で様々な人々に出会う過程が『カンダハール』のストーリーの基本構図となっている。ヒロインを演じるニルファー・パズィラがアフガンに残った友人から自殺をほのめかす手紙をもらい、映画のヒロインと同様、彼女を救いに行く旅を取材して映画に撮ることを、マフマルバフに持ちかけたという。旅そのものは実現しなかったが、アフガニスタンの国境近くで潜入ロケを行い、加えて現地の人々をキャストに起用するなどした、“事実らしさ”がこの映画の興業上の売りになっている。
アフガニスタン空爆の中で名を高めたこの『カンダハール』だが、同時多発テロ以前、この作品に対する評価は極めて低かった*1。否、アフガン攻撃以後でさえ、賛否が大きく分かれる作品だったと言える。
管見の限りでは、この作品に対する評価は大きく3つに分かれるようだ。一つは、「人間の生の(略)ぎりぎりの場」に「私たち」を招いてくれるというように〔岡〕、そこに何がしかのアフガニスタンの真実を見出そうとするものだ。しかし、そうした評価をするには、この作品はあまりに映像美とユーモラスさに富んでいる。
これに対し、むしろ「おぞましいもの」を「美学化」してしまっており〔梅本〕、「世界市場に向けた絵葉書や寓話で」、彼のフィルモグラフィー中「最も直截なプロパガンダ」〔北小路〕などの批判もある。この二つの見方は、どちらもマフマルバフがアフガニスタンの真実を描こうとしている、あるいは真実のように見せかけようとしている、という点では共通している。
一方、第三の見方として、プロパガンダとして見るには、この作品があまりに謎めいた不可解さに満ちていることを指摘し、またマフマルバフの過去の作品との対照から、彼の「リアリティ」に対する重層的な描き方に注意を喚起する声もある〔鈴木、橋本〕。
本稿の立場は第三のものに近いが、それでは、一見平板なロード・ムービーにも見えるこの作品には、どのような仕掛けが施されているのだろうか。このことは、映画に即して解き明かす必要があるが、それと対照させるため、まずは彼の文章によるレポートの方を取り上げてみよう。
マフマルバフのリポート『アフガニスタンの仏像は…』は、大仏破壊を批判しても、アフガニスタンに生きる人々の困難な現状には目を向けなかった当時の国際社会を批判した著書として、否定できない意義を持つ。しかし一方で、訳者の一人渡部良子の指摘する通り、相対的に近代化したイランから、部族主義や、ブルカ・一夫多妻制による女性の抑圧など*2、文化的に遅れたアフガニスタンを眼差す、ある種の近代主義が否応なしに目に付く。
そしてアフガニスタンの混乱と貧困の原因を、その文化的後進性に求めようとする態度は、次のような発言につながる。「アフガニスタンは、世界の国々の干渉にそれほど苦しめられたわけではない。その無関心に苦しんだのだ」(p.71)。この一節は映画のコピーにも使われたが、マフマルバフによると、石油などの重要な資源を持たず、外国が介入するだけの価値を持たなかったことが混乱の原因とされ*3、下記のような見解まで出てくる。
だが、もしこの戦争(麻薬をめぐる内戦―村井)が何か重要な戦争であれば、この800億ドルがただ一度アフガニスタンの戦争に投入されるだけで、ひとつの勢力が最終的に権力を手に入れて、アフガニスタンが歴史の新しい段階に入ることもできたのだ」(pp.79-80)。
後にアメリカを中心としたアフガニスタン攻撃に対し、マフマルバフがそれを非難したことは言うまでもないが、にも拘わらず、彼自身の論理展開の中に、実は圧倒的な軍事力による介入と矛盾しない、きわどさが含まれていたことは注意しておいても良いだろう。
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