『カンダハール』を読む―映像と他者表象のポリティクス― (1)


 ほとんど研究会のお知らせ以外アップしていないので、何か書こうかと思ったけど、日々のノルマをこなすので精一杯で、当面ゆとりもない感じだ。
 代わりというわけではないけど、ちょうど2年くらい前のカルチュラル・タイフーン2003で報告した原稿、お蔵入りになっていて、公刊の見込みもないので、こういうのをネットで公開するというのもアリかなと思い、掲載することに。一日分で載せるには長いので、以下、節毎に数日分に分けて載せる予定。
 ほとんど“ブログ”というよりホーム・ページのノリだね。まあ、ブログっぽいことはミクシィでやっているから。
 2003年6月、於早稲田大学の報告です。

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カンダハール』を読む―映像と他者表象のポリティクス―村井寛志

はじめに
2001年9月11日の同時多発テロ以降、その知名度を一気に高めた文化人の一人に、モフセン・マフマルバフ(Mohsen Makhmalbaf)という映画監督がいる。9・11以前には注目する者の少なかったアフガニスタンを題材にした彼の映画作品『カンダハール』Safar e Ghandehar(2001年)、及びアフガン・レポート『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』(The Buddha Was Not Demolished in Afganistan; It Collapsed Out of Shame.)は、ともに911事件以前の作品であるが、アメリカの報復攻撃に対する批判の中で、頻繁に言及された。
カンダハール』は、については、既に多くが語られていおり、『アフガニスタンの仏像は〜』の映像版として見る見方も多い(映画の方が先の成立だが)。国際社会が注目しなかった時にアフガニスタンを取材して作られた作品という点については、アフガニスタンでの直接の映画制作が以前より容易になり、またアフガニスタン人の監督が自ら映画制作を行いつつある現状では*1、その重要性を失いつつあるかもしれない。しかしながら、マフマルバフがこの作品の中で取った他者表象の戦略は、未だそのポテンシャルが汲み尽くされたようには見えない。特に、隣国に対し、凶悪な独裁的テロ国家とその下で苦しめられた人々という、極端に単純化されたイメージが流布している日本の状況の中で、今一度この作品を読み直すことには、何らかの意味があるのではないかと考えている。
(〈http://d.hatena.ne.jp/murai_hiroshi/20050619〉へ続く)

*1:2003年のカンヌ映画祭で、セディク・バルマク監督の「アフガン零年〜OSAMA〜」が特別賞を受賞している。筆者は未見だが、この映画の制作過程を取材したNHK制作のドキュメンタリー番組「マリナ・アフガニスタン・少女の悲しみを撮る」(2003年6月21日放映)を見た限り、分かりやすい形に加工された「悲しみ」の演出の仕方に、些か不安を感じた。