カンダハール(6・終)

http://d.hatena.ne.jp/murai_hiroshi/20050623/〉より続く。
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おわりに
 以上の考察から何を導き出せるだろうか。復興の見通しが立たないまま、早くも世界から再び忘れられ始めているアフガニスタン、あるいはアメリカから次なる標的の一つとして経済制裁を受け、失業問題が深刻化する中で“民主化”運動が高まっているイランの問題を考えることは、意義があるかもしれないが、筆者の能力の及ぶところではない。むしろここで問題としてみたいのは、自らの住む東アジアのコンテクストの中で、いかなるアクチュアリティにつなげていけるのかとという問いである。
カンダハール』は、イランの映画監督が、極限の貧困状態にある、しかしイメージのない隣国を撮るという動機で作られたものということになっているが、マフマルバフは、アメリカの空爆の後、以下のようにも語っている。

 メディアの映像を見ると、アフガン人はまずなにものでもなかった。それからテロリストになりました。そのあと貧しいかわいそうな人になった。だから、わたしたちは彼らを助けてあげた、彼らは幸せになった、そういう言い方ばかりですね。〔マフマルバフ×西谷〕

これを現在の日本に置き換えた時、拉致事件認定以後、北朝鮮=独裁的テロ国家という単一のイメージはメディアの中で溢れかえっている。一方でこれとは別に、国境地帯で脱北者を支援したりする市民団体や、北朝鮮における苛酷な民衆の状況を明らかにしようとするジャーナリストたちもいる。両者は必ずしも重なるものではないかもしれないが、一方で必ず矛盾するというわけでもない。
 これに対し、日本による植民地支配についての歴史認識の問題や、在日コリアンに対する人権侵害の歴史を持ち出すことは、日本社会の内部においては必要なオルタナティヴな観点を提起しているが、北朝鮮の現状そのものと向き合っているとは必ずしも言えない。
飢餓線上にある北朝鮮の民衆に同情を寄せ、その状態の改善のために外部世界が努力することは、恐らく間違ってはいないし、また必要なことだろう。しかし、にも拘わらず、その“正しさ”の中に、いかにして単一の正義に回収しきれない多声的なものを織り込んでいけるのか。限りなく困難なこの問いこそが、現在最も必要なのかもしれない。

【文献】