カンダハール(5)

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4.映像の中のポリティクス―近代主義と自己相対化―
アフガニスタンの仏像は…』に見られるように、監督自身はアフガンの人々がいかに苛酷な状態にあるかを、『カンダハール』よりもっと直截に描くことを否定しているわけではない。その意味で、前半に見られるナファスの視線は、少なからず監督の本音と重なるところもあるのではないだろうか。にも拘わらず、彼の映画表現の中には、こうした視線を相対化するものが含まれている。
 マフマルバフのファンで、彼を崇拝するあまり自らをマフマルバフだと詐称してしまった男を素材にした疑似再現劇である、キアロスタミAbbas Kiarostami監督の作品『クローズアップ』NEMA-YE NAZDIKに出演した後、彼は以下のように語った。

僕は人々の夢を映画に描こうとしてきた。観客はそれを観て映画に近づこうとする。そしてそれが今やこうして僕自身と夢をダブらせてくる。だから、これからはそんな夢は壊して、それぞれの人が自分の道を歩きつづけることができるようにしたいと思ってる。〔マフマルバフ、1995〕

 この後、彼の作品では、度々マフマルバフが自らの役を演じるというスタイルが度々採用される。岡村民夫の表現を借りれば〔岡村〕、そこに見出せるのは、自身を分身化・演劇化させることで、自身のパースペクティブを差異化していく手法と言えよう。『カンダハール』にはマフマルバフ自身は登場しない。しかし、主演のニルファー・パズィラもまた、自分自身、正確には自分をモデルに映画的に脚色されたヒロインを演じる中で、自らのパースペクティブを差異化することを強いられる*1。そこには、語る主体としての自らの位置を相対化していく、マフマルバフ独特の仕掛けが組み込まれていると言えよう。
 9・11前後のアフガニスタンにおいて、その苛酷な現実を描くことは緊急性のあるテーマであり(それは今も大して変わっていないのかもしれないが)、『アフガニスタンの仏像は…』は、その課題に一定程度答えていたと言えよう。近代主義的観点からアフガニスタンの悲惨さを訴えたことが、結果的に国際的な援助活動に影響したことからすれば(彼自身、アフガニスタン難民に対する教育基金を立ち上げている)、現地の窮状の改善に何ら貢献しない“近代性の脱構築”よりも、はるかに意味があると言えるかもしれない。
 しかし同時に、そうした反論の余地のない“正しさ”が、時として普遍主義的な暴力と紙一重の論理を持ってしまうことは先に見た通りである。マフマルバフの映画が真に“政治的”なのは、一方でそうした“正しさ”を唱えつつ、自らの映像の中でその一方的な眼差しを相対化していく、多元的な語り口の中にあるのではないだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/murai_hiroshi/20050624〉へ続く。

*1:来日時の記者会見で彼女は、撮影を通して、ブルカが単なる抑圧の象徴というだけでなく、苛酷な条件下では女性の身を守ってくれる面があると、自らの認識が変化していったことを語っている〔パズィラ〕。