カンダハール(4)

http://d.hatena.ne.jp/murai_hiroshi/20050620/〉から続く。

3.変容するポジショナリティ
 しかし、ナファスの視線、語りは、映画を通して一貫した方向、性質にあるわけではない。そこには、微妙だが確実な、彼女の視線の変化が描写されている。
 少年ハクを危険な存在だと断定した後、(偽)医師はナファスに、彼女に「カーテンの後ろから出る」ように促し、自らも「男のブルカ」である偽ひげを取り、「カーテンの後ろ」から出てくる。このことは、「むき出しの生」というよりは、何がしかの覆いをまとって生きていくことを強いられた苛酷な生を生きる人々に対し、それを眼差す側自身もカーテンの隙間からのぞき見していたことを思い起こさせる。この直後ナファスは、ただ無料でいいから指輪を受け取れと、再び食い下がってきたハクに根負けし、それを受け取る。そこに微妙な心理状況の変化が読みとれる(この後の太陽が半分隠れたカットが暗示的)。
 この後、医師に連れられてナファスは赤十字センターを訪れるが、そこで、マグダという女性が上空のヘリと交信する場面がある。実はこの時の言葉は、冒頭でナファスが乗ってきたヘリの中で聞こえるものと、全く同じ内容である。現実にはあり得ないことだが、冒頭のシーンと下から見上げるシーンでは、時間的にも空間的にも重なっている。しかし、ヘリから見下ろしていたナファスが、ここではマグダと一緒に空を見上げる立場にあり、同じものを違う目線から見ているという構図になる。
 赤十字センターで、妻の失われた足を思う男性、空から降ってくる義足を目がけて飛び跳ねていく松葉杖の男たちの姿(このシーンの撮り方に関しては、評価が分かれるところだろう)を目にした後、彼女の語りの変化は、よりはっきり見てとれる。彼女はこの後、片腕の男ハヤトにカンダハールまでの案内を頼むことになるのだが、例のブラック・ムスリムの医師は、今度も「彼は信用できない」として、彼女に銃を持って行くことを勧める。しかし、ここではハクの時と異なり、ナファスは医師の忠告を退けている。
 この時、ナファスのナレーションは、自分の旅の「唯一のリアルな障害」として太陽を語る。冒頭では、日食の日、即ち世界が闇に包まれる日に自殺するという妹の手紙を伝え、闇としてのアフガニスタンの悲惨な現状を伝えていた彼女のナレーションは、ここではむしろ光の持つ残酷さを告発している。光と闇の位置付けが逆転しているのだ。
 そして前半部では、妹へのメッセージという形式を取りながら、巧妙に外部世界に持ち帰る現地レポートの記録装置として機能していたテープレコーダーは、ジャーナリスティックな役割を止める。彼女はレコーダーを医師に渡し、自ら録音させるが、ここでこの装置は、語るためのものから、聴くためのものになる。空からと地上から、光と闇、語ることと聴くこと、様々な構図の逆転がここに織り込まれていた。
 日本での映画公開の後に行われた対談の中で、マフマルバフは次のように語っている。

普通、アフガンに入っても、(略)まず目に入るのは飢えであり、けわしい顔をした人々であり、汚い格好をした人々で、そこで終わってしまうんですね。しかし、こういう表情の裏で、どういう生活を送っているのか、どういう文化や考えを持っているのかということに誰も入っていかないんです。〔マフマルバフ×西谷〕

 映画の展開は、前半部でのこうしたジャーナリスティックで、一方向的、表層的な視線が、様々な変容を蒙っていくプロセスとして読み解くことが可能である。
 もっとも、こういう形で絵解きをしてしまうと、今度は、最初表層的だったナファスの視線が、その裏側の“本当の”人々と触れあうという、啓蒙的なプロセスの陳腐さが目についてしまうかもしれない。しかし映画はいまひとたび転換を見せる。
 エンディング近く、片腕の男ハヤトのアイディアで、ナファスとハヤトはブルカを被って花嫁行列に紛れ込む。しかし、途中次々と離脱するブルカの群を怪しんだ彼女たちは、隣のブルカに向けて尋ねたところ、カンダハールに向かっていると思った一行は、実はイランに息子を出稼ぎに送るため、ナファスらと同じく花嫁の親戚に成りすましている最中だという。ブルカの下に抑圧された可哀相な女性を期待する観客は、ナファスとともに裏切られ、更には彼女たちが/物語がカンダハールに向かって進んでいるのか、遠ざかっているのかも分からないまま、タリバーンの検問に出くわすことになる。本、楽器など、文化の象徴が次々と取り上げられる中、ナファスは人々の“希望”を吹き込んだテープレコーダーを捨てるよう迫られる。エンディングは再び日食のカットで終わる。
 より奥へ、深部へ向かうはずの旅は(カンダハールはオマル師が“出現”した町)、核心を捉えそうに見えた次の瞬間、方向を見失ったまま再び牢獄に捉えられる。彼女の後を付いて旅し、深層/真相を見ようとする観客の眼差しは、ここで大きく肩すかしを食わされることになるのだ。監督は、ブルカの下に隠された“素顔”が見たいという、ポルノグラフィックな欲望を満足させるという選択肢を取らなかった。
http://d.hatena.ne.jp/murai_hiroshi/20050623〉に続く。