対症療法―中国反日デモ-その3

 僕の周囲でも、上海は大丈夫なのではないか、という希望的観測があったし、僕自身、なんとなくそういう雰囲気になってしまっていたので、上海のデモが破壊的な方向に流れたことには正直ショックを受けている。しんどいところだが、こういう時こそ忍耐強い思考が改めて求められるように思われる。
 先に対症療法的に言うと、小泉首相が談話の中とかで、中国の民衆感情に配慮して靖国問題、ないし歴史問題について反省的に取り組むという趣旨のリップサービスを入れてくれれば、大分話は簡単になるのではないかと考えている。
 全面的に日本の非を認めるということでなくてもいい。例えば5分話す中で、4分は中国政府に文句を言ってもいいから(恐らくそれが全くないと日本の世論が収まりがつかない)、1分だけでも中国側に対する配慮を入れて、メディアがそこの部分を多少誇張して伝えるとか、ちょっとした配慮だ*1
 逆に言うと、中国側の報道官の発言などは、よく読むと、大抵は表面上の強気の姿勢の中に、実質的な相手に対する譲歩が織り込まれている。しかし残念ながら、日本の報道ではそうした配慮の部分は全く無視されている。中国側は中国側で国内向けパフォーマンスが必要なのであり、日本側としては、そこは無視して配慮の部分を最大限に読みとるべきなのだが、むしろ現実には逆になっている。
 日本側からちょっとしたリップサービスがあれば、双方、多少なりとも身動きの余地ができるのではないだろうか(個人的には、リップサービスだけでなく真面目に考えて欲しいが)。
 ここに挙げたのは短期的な対処法に過ぎないが、長期的に、もっと根深い問題を考えていくには、取りあえず一呼吸置くことが必要だと思われる。
 長期的に考えるべきは、中国において、戦争を直接体験していない世代の、しかし確実に存在するある種の感情に対し、同じく戦争を経験していない世代の日本人がどう向き合うことが可能かという問題であろう。今回の件について、日本のメディアにおける“反日デモの背後事情”についての一見合理的な“説明”は、どうにかしてこの問題を無視して済ませたいという感情的な問題を背後に隠し持っていたように見える。日を改めて、このことについても考えていきたい。

*1:考えてみると、そうした“配慮”の役回りができそうな政治家は、ここ数年のスキャンダル騒動の中で、ほとんど姿を消してしまっていて、残っているのは国内的なパフォーマンスのみに長けたような連中ばっかりだ。「ムネオcome back!」とか叫んでしまいそうだ。