中国の映画産業(2)「喜劇電影豈能“娯楽至死” (コメディ映画は“死ぬほどの娯楽”でいいのか)」

 授業で使った文献の続き(前期なので、実際に使ったのはしばらく前)。前に紹介した「賀歳需要多少影片?(お正月はどのくらい映画が必要?)と併せて中国の映画産業をテーマにした回で使った。

陳鵬「喜劇電影豈能“娯楽至死” (コメディ映画は“死ぬほどの娯楽”でいいのか)」
(『瞭望』49期、2009年12月7日)

[要約]
 2009年の中国コメディ映画は佳作も少なくないが、マンネリ化が進んで、全体的な水準としては高くない。同年の『瘋狂的石頭』(クレージーストーン)から多くの模倣作が出たが、寧浩の技巧は誰にでも真似できるものではない。
 08年の『十全九美』はコメディの水準を更に下げている。王岳倫はさらに『熊猫大侠』を撮ったが、この種の粗暴でちぐはぐなギャグが現代の娯楽の嘆かわしい特徴の一つとなっているというに過ぎない。
 中国最初の女の子映画『非常完美』(ソフィーの復讐)などはまじめなロマンチック路線で、ストーリーに粗はあるが、まだましだ。
 2003年頃から中国コメディ映画は田舎っぽい題材から都市物、ラブストーリーの方向に進んでいった。同時に、周星馳のナンセンスギャグ(「無厘頭」)を元にしたり、ネット用語や流行を取り入れようとした。テレビドラマ『武林外伝』は『石頭』にも劣らぬ出来で、ポストモダン的なコンテクストの消失が、人々に現実のやるせなさに嘲笑的な態度を取らせているということを気づかせてくれた。
 しかし、アイロニーデコンストラクションだけでは十分ではない。アメリカの作家アイザック・シンガーポストモダン文学を批判していることだが、価値のある言説が完膚なきまでに解体された後、我々の世界には何が残されるというのか。
 チャップリンサイレント映画のように、シンプルな動作と音の悪い音楽で、永遠に観客を感動させることができる。ニール・ポストマンがAmusing Ourselves to Death で描いたように、劣悪なネタやナンセンスなストーリーなどは結局は飽きられる。中国式コメディ映画が真剣な洞察や機知に富んだユーモアを欠いていれが、墓穴を掘ることになるだろう。

[コメント]
中国の最近のコメディ映画についてはほとんど知識がなく、どういう作品がヒットしているかもあまり知らなかったので、個々の作品の情報ので勉強になった。正直、海外にはほとんど出てこないような作品を一つ一つチェックするのは辛いので、こういうのを読むのも良いかもしれない。
 しかし、映画批評としては、『瞭望』という雑誌の性格からして仕方がないのだろうが、エリート知識人的な目線からの大衆文化批判という感じで、批判される方からしたら「大きなお世話」という感じかもしれない。
 この期のテキストは基本的に『瞭望』から取ったもので、映画産業とか扱うには適切な文献とは言えなかったかもしれない。反省。