下流社会

ようやく少しずつ時間が取れるようになったので、しばらく前に読んだ本のメモを整理。

下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)

批判・共感を含め、色んな人が色んなこと書いてるので、改めて紹介する必要はないと思う。取りあえず、読物としては面白かった。
 しばらく前に読んだ本なので、細かいところは覚えていないが、付箋を貼った箇所だけピックアップ。

p.105

 たしかに、女性の社会進出によって、女性の生き方は多様化し、結果として夫婦のみ世帯の増加など、家族形態も多様化したが、必ずしも幸福の形が多様化したというところまではいってない。
 もちろんこれは社会が過渡期にあるからかもしれない。が、少なくとも現状では、最も階層意識が高く最も生活満足度も高いのは裕福な男性と専業主婦と子供のいる家庭であり、次いで裕福な夫婦のみの世帯である。未婚でも既婚でも、一人暮らしでもパラサイトでも、子供がいてもいなくてもいなくても、専業主婦でも共働きでも、同じような階層意識と満足度が得られるほど多様化した状況にはなっていないと言えるであろう。pp.105-106

 三浦氏の調査は素人目にもいい加減なので、本当にそうかということ自体問い直す必要があるが、確かに日常的な感覚と一致する。逆に言えばこれは、ライフ・スタイルの多様化自体が何らかの必然性を伴っているにも拘わらず、それに見合った多様な幸福のあり方がイメージできていないということが問題なのだと言えるのかもしれない。
 これは、取りあえず「文化」の問題として争点化できるかもしれないが、ここで「文化」という語でいったいどのような内容を指し示すかも吟味しないといけない。

以下は、鈴木謙介カーニヴァル化する社会』を批判的に取り上げた箇所。

 そしてもちろん多くの人間は、客観的に搾取されていることを自覚してはいるが、それをどうしようもないために、ある程度内的に不幸なのであり、他方では、その程度の不幸なら瞬間的な盛り上がりやら何やらを介して適当にやり過ごすことができる程度にタフなのである。
 ただ、私もやや危惧するのは、その瞬間的な盛り上がりさえも、鈴木が指摘するようなサッカーワールドカップなどの娯楽イベント的なメディアを中心にあまりに装置化され、管理されているという点である。つまり、内的に不幸な人間が、その不幸を自分自身の力で解消するタフさを持たず、大きなメディアイベントに依存した受動的な存在になっているのではないかという点である。p.186

 僕の友人の一部は、ワールドカップなどのメディアイベントに参加する人々が、単純に受動的に動員されているのではなく、彼/彼女らが能動的にそれらを読み替えたり、戦略的に利用したりしているということを言おうと頑張ってる。カルスタ用語でいうところのアクティブ・オーディエンスって話だ。それらは、単なる“客観的分析”ということではなく、色々オルタナティブなイベントを企画しようという実践的な観点から言われているわけで、その辺の問題意識は共有したいとは思ってる。
 ワールドカップとかのイベントは、集合的に消費される場合には、まだ(良くも悪くも)そこから生まれてくる社会性に可能性を見出すという立場はアリだと思う。しかし一方で、例えば、アニメでもゲームでも(コンテンツがスポーツとかでも同じだが)、ディスプレイから垂れ流される映像とかを部屋の中で消費する“ひきこもり系”の文化消費に関してはどうだろう。素朴な印象としては、必ずしも生産的なものを生み出してないような気もする(“生産的”って何だ、という突込みの余地はあるが)。
 “文化”として狭義に連想される映像や音楽、スポーツなどの領域の中に、社会を覆うイデオロギーや生活規範(最初の引用箇所のところで述べた意味での“文化”)などとに対するポジティブな変革の可能性、あるいはそこから身をかわし逃れるための何かが見出す、というタイプの“文化政治”の議論がある。それを考えるためにも、後者の、広義の“文化”に関するよりシビアな考察が必要となることだろう。(続く)